2010年07月04日

ソーシャルフィルタリング不要論:カオスのすゝめ

 本日はお休みと云う事で、少し変わったお話を記事にしてみます。

 ソーシャルフィルタリング不要論…少し、煽り過ぎ感は否めませんが、内容的には合致しているので、問題ないと思います。

 以前、「ソーシャルフィルタリングは知的好奇心と発想力の低下を招く元凶」と云う記事をエントリーしました。
 以前の記事と本記事のタイトルだけを見ると、まるで私がソーシャルフィルタリングの否定論者の様に見えますが、全くそう云う訳ではなく、情報収集における作業効率を向上させる点においては、ソーシャルフィルタリングは大変、有効的に働くもの、と肯定的な意見を持っています。

 但し、これは能率面の向上において肯定的である、と云う意味でして、発想力や機会損失と云う観点では、ソーシャルフィルタリングには否定的です。

 今回は、その辺りについて、少しだけ書いてみたいと思います。





 昨日の夕方から本日の深夜過ぎ迄、とあるニコニコ生放送の生主(ライブ映像配信者)さんの放送を視聴しておりました。
 ニコニコ生放送での放送内では、特別何かがあった訳ではなく(いつも通り楽しく放送を拝見する、と云う意味)、ニコ生での放送終了後、Ustreamへの移動を行って、今度はUstreamでの配信を視聴し続けました。

 Ustreamに移ってからの方が放送は長かったのですが、その際、配信者は幾つかのオンラインサービスにアクセスしました。
 スカイプちゃんねるやこえ部、BARギコっぽいONLINE、タカミンお絵描きチャット他、数々のサイト群です。
 実は、これらのサイト群、全て知りませんでした。
 正確には、名前は知っていても行った事がない、使った事がないサイト群です。勿論、初めて知ったサイトが殆どです。

 私は仕事が仕事だけに、一般の方よりは多くのオンラインサービスを存じ上げているのですが、所謂、ビジネスに直結しない趣味的サイトに関しての造詣は、並以下かも知れません。

 自分がこれらのサイトを使うかどうかは兎も角、知る、と云う事は勉強になります。
 知らなければ、選択肢にさえ入って来ませんから、如何に知っているかが、大変、重要になって来る訳です。

 今回、ソーシャルフィリタリング不要論等と云う巫山戯た内容にしたのは、上述の様な知り得る機会を自ら切り捨ててしまう事が如何に勿体ないか、を伝えたかった為です。

 ライブ配信者を選択してる時点でフィルタリングだろう、と云った天の邪鬼な解釈をなさらず、少しだけ読み続けてみて下さい。

 自身の趣味や嗜好では、到達不能領域がある、と私は考えています。
 若い頃の私は(子供の頃は感受性は高かったのですが)、どちらかと云うと孤高的な考え方を持っておりましたので、他者の趣味に対して、排他的でした(より正確には、他者の趣味に文句はつけないが、その趣味を押し付けられるのを極端に嫌う、と云う感じです)。
 今でも、無理矢理、価値観の共有、共感の押し売りをされるのを嫌う傾向にあります。

 しかし、若い頃であれば、極自然にアンテナ力と吸収力が高く、貪欲に物事を身に付けて行けましたので、放っておいても想像力を高く維持する事が出来ましたが、年を経て、徐々にアイデアに偏りが出てしまいがちです。
 これは、経験や嗜好性が大きな影響を与えており、自身が能動的に求め得る情報と云うものは、何等かの意志を与えない限り、どんどんと狭く窮屈になってしまう傾向が高いのでは、と考える様になりました。

 これは、各媒体のニュースを見比べて見て思った事です。
 テレビのニュースでは、放送時間帯におけるターゲット層において視聴率を獲得出来るであろう偏った情報となります。
 新聞であれば、豊富な情報がテキストとして散りばめられているものの、限りある紙面上の配置、情報量に大きな隔たりがあります。
 ネットの場合、実に多くの情報が配信されており、これをピンポイントで閲覧すれば、より多くの情報を得る事が出来るものの、記事タイトルのキャッチーさやフレッシュさにおいて、情報そのものが埋もれてしまう事もままあります。

 目的の情報を選択し、これを閲覧する場合において、ネットの的確さは他の媒体を遙かに凌駕し、興味のない情報を無駄に閲覧する必要性がない、と云う観点から云えば、大変優れていると云えますし、恐らく今後、益々、この傾向は強くなる事でしょう。
 しかし、情報への好き嫌いが過ぎると、嗜好性に偏りが生じ、価値観そのものが引き摺られ、情報における栄養価は益々、偏ってしまうのです。
 つまり、ベースとしてあるべき、想像力を働かせる知的好奇心そのものを弱体化させ、狭量な考え方を増長させてしまう可能性があるのです。
 そうなってしまうと、やたら頑固になったり、偏屈になったり、排他的になったり、と本来、取捨選択してより良いものをチョイスする基本的な選定基準が低下してしまう事を誘発し、まだ見ぬ成長を自ら止めてしまうのでは、と思った訳です。

 恐らく、上述のライブ配信を見ていなければ、生涯見る事のなかったサイトもある筈です。
 この機会と云うものは、私が私である限りにおいて、能動的に探し、出会す可能性は極めて低いものであって、これを知る機会を得た、と云う事実は、もうそれだけで充分なプラス要素を持ち、また、何等かの機会の時にでも、それらのサイト群からヒントを得て、別の何かに転用する糸口になる可能性を秘めている訳です。

 可能性を増やす(高める)事の大切さ、そう云う意味で考慮すれば、ソーシャルフィルタリングの齎す効率面の向上等、大した意味を為しません。
 作業効率の向上は大変、大事な事ですが、自身が知り得ない情報、或いは、知る機会さえない環境、と比較すれば、どちらがより重要度が高いか、分かる筈です。


 自分の興味対象のみが理路整然と並ぶ情報群を的確に選択し、これを綺麗に整頓しながら吟味する事は重要ですが、実の処、これは既に誰でも出来ます。
 インターネットが現れ、情報検索をする事で、極自然に皆、フィルタリング機能を使いこなしているのですから。

 寧ろ、混沌とした情報群に身を投じ、強制的、乃至は、半強制的に、知り得ないものを見た時、新しい何かが生まれる可能性があります。
 勿論、受動的に得た情報と云うものは、自身にとっては大半が役立たずで興味のないものばかりです。
 しかし、その中から新しい興味対象となるべき発見が出来るとしたら、どうでしょうか?

 ソーシャルフィルタリング不要論…実に前時代的で能率が悪く、無駄な時間を拘束されはしますが、無駄があるからこそ面白いですし、無駄があるからこそ、これを改善しよう、と前向きに動ける訳です。

 新しい発見と新しい発想は、無駄の中から生まれる!


 何かこの記事、胡散臭いですね…たまには良いでしょう。


 と云う訳で、アリーヴェデルチ♪


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posted by EINS at 20:29 | Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | この記事をはてなブックマークに登録 | この記事をYahoo!ブックマークに登録 | この記事をBuzzurlに登録 | この記事をニフティクリップに登録 | この記事をlivedoorクリップに登録 | この記事をdel.icio.usに登録 | トピックイットに投稿する
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